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まずは物集め

自宅録音計画、そしてその実行につき、励ましのお声を複数頂戴しています。
ありがとうございます!

昨日早速某通販大手からコンデンサーマイクとマイクスタンドが届きました。
コンデンサーマイクはまだ使用しよう(!)もないので分かりませんが、
マイクスタンドは低価格の某国製で、かなり高評価のものだったゆえ経費節減の要請も
あり買ったものの、組み立て手順2で早々にハンダづけ部分が剥離。
唖然としました。
某国はもうすでに安かろう悪かろうの時代を過ぎていると思っていたので大いに失望。
早速返品しますが、その手間への代償はないのかと憤っております。

コンデンサーマイクは、スティックに相談して品定めし買ったもの。
彼の相棒でアコースティックギター演奏を自分でも録るガッちゃんも推奨しているので
安心しているのですけれど、これも安価で某国製。ちょっと心配になってきた。

ただ、コンデンサーマイクは保険をかけていますので、一応大丈夫。
Neumannという、ヴォーカル録りなどでは絶対的信頼のあるブランドのものを
出血しながら購入しました(まだ届いていないけど)。 ^^;)

もうひとつ大出血しての購いは12弦ギター。
Ovationというアメリカのブランドものなので安心しております。
このmakerのは1994年にピエゾ付きの6弦のものを当時25万円で購入しており、
2本目ということになります。

12弦ギターはずっと欲しかったのですけれど、なかなか手が出なかった。
自宅録音では、vocalsを引き立たすのは生ギター(一部エレクトリックも)なので、
おととし間違って買ってしまったMartin D-45をメインにしながら、
この12弦ギターでアクセントをつけていこうと思っています。

そのacoustic versionsを基に重ね録りも必要あらばしていくという格好です。


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購入決定 残り少ない音楽人生のために

先ほど清水の舞台から飛び降りる気概で、
レコーディングのために必要な器材や楽器を<青春の24回払い(ではないが)>のやうな
かたちで購入することに決定し、ボタンを押してしまひました。

しかたがない!

残り少ない人生、そして音楽人生、
歌ひたいやうに歌つてそれらを残すといふのは喫緊の課題なのです!

ただ、防音室の設置は1ヶ月以上かかるやうなので、
録音開始は少なくとも4月下旬からになります。

がんばるぞ。


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東京寒の戻り



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2019 彼岸過ぎ雑記 〜The Lost Canvas 10年

さて春期講習。
とは云え、今年は実にまあ暇だ。
去年受験学年の生徒さんたちがとても多かったけれど、
今年は新高3は1クラスしか持たない。
新中2と新高2のクラスはあるけれども、個人指導が減ってしまい、
なかなかピンチである。 ^^;)

引越しの整理ももう大方終わった。
さて録音室の設営なのだが、来年度の収入見込みではかなり厳しくなっている。
それでもリスクを承知でsingerとしての企てはgoだと思っているので、
もし期待してくださっている向きがあれば、どうぞご安心ください
(ってほんとにそう言っていいのか、おい)。

*

Twitterでフォロワーさん(Saint Seiya News)さんが、
The Lost Canvasの10周年だというtweetを寄せてくれた。

そうなんだなあ、と。
長い10年だった気がする。

今朝の「明日への言葉(NHKラジオ深夜便)」で大竹昭子さんが作家須賀敦子の
20周忌に当たる今年、アンカー氏の「あっという間」という言葉に反応し、
「いえ、とても長い時間だった」と言われ、「震災を挟んだりもしたからか」と。
大いに共感する。

このThe Lost Canvasからの10年ももちろん震災を挟んだ。
私にはプラス原発事故がとてつもなく時間感覚を引き伸ばしたように思える。
その年、父が亡くなり、次に義母、兄、母、従姉が後を追った。
私は目を悪くし、相次ぐ肉親らの死に鬱状態になってしまった。

やはり時間の経過についての個人的感覚は、出来事の多寡、そしてその出来事の意味の
大きさに比例して長く感じられるように思われる。

・・・The Lost Canvas、少なくとも絵の素晴らしさはシリーズ最高だろう。
Openingも、と思いたいけれど。

まだまだよろしく!




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恋がSky Highに吹き飛ばされて、爽快。

昨夜初めて夜の砧公園を歩いた。
11時過ぎだったか。
ジョギングの人、広場で遊ぶ若者数人以外とは出会わなかった。
東側の広場では大きな声で歌うことができた。

今夜のsingingでいちばん爽快に歌っているのはJigsawのSky Highだ。

I gave you love
I thought that we had made it to the top
I gave you all
I had to give
Why did it have to stop?

この部分は本当に歌っていて気持ちがいい。
weとgiveのところ、このverseでの最高音程のところは特に。

詞は実にまあ、情けない失恋のものなのに、なんとまあ突き抜けているか。
You've blown it all sky high
と言いつつ、爽快無比なメロディー、バッキング。

この矛盾がいいんだな。



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弥生の夕べに



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とみのすけさ

今日なんとNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』が放送された頃以来の知己との再会が
あるのです。

なぜドラマでその頃を表現するかというと、
その友人と職場で「とみのすけさ(ん)」「MNEMOぞうどん」とふざけて
呼びかけ合っていたからなのです。そう、前者は「きちのすけ=西郷隆盛」、
後者は「いちぞう=大久保利通」のもじりです。

<とみのすけさ>はその後まもなく郷里の北海道へ教員になるため帰郷、
お付き合いは2、3年だったのですが、頻繁に昼ご飯を共にした気の合う同僚でした。

年賀状のやり取りをずっとしておりましたが、あまりに再会する機会がなく、
それも滞りがちになっていたところ、先日彼が上京するので会わないかと電話が。

互いに大いに齢を重ねて、一体どんなことを語るのか。
会うのは共に働いた地、下北沢です。


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2019 弥生雑記 4

今日で引っ越して丸2週間が経ちました。
荷物は相当片付きましたけれども、完璧ではない。
まだ細々整理をしなければいけません。

Kの大協力と寄進で表札もできました。
私が毛筆したもので、「達筆」とKのみならずKのお母堂も褒めてくださいました。
それを大理石の板に彫琢したものなのです。
Kが原型を作って、それを業者に出してくれたのです。
Kはなにかと今忙しい時期なのに厚い友情を示してくれ、本当に頭が下がります。

さて、防音室だ。
金欠になりつつあり、整備に暗雲が立ち込めつつあります。 ^^;)

もっと仕事しないと。



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2019 弥生雑記 3







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ジャスト8年ぶり

Mooさんと交換日記をする気はないのだけれど、
氏が58歳時の東京町田から安曇野池田への引っ越しの頃を振り返っておられ、
なつかしい写真なども掲げられていて感慨一入、書かざるを得ず。

昨日3.11、義父の自転車に8年ぶりに乗りました。
驚くべきことに、本当にちょうど8年ぶりでした。
2011年のその日、私は新宿到着直前に大地震に電車の中で遭い、
信じがたいほどの揺れを経験しました。
緊急地震警報はラジオを聴いていたので受信し、地震波到達数秒前に構えてはいました。
しかし想像をはるかに超える揺れが始まり、車掌さんもさすがにpanickyな声で
「こ、これは電車自体の揺れではありません!」とアナウンスし、電車は緊急停止、
車止めの数メートル前で止まり、そのまま動かない。

5分は経ったかというところで「一番前の車両より降りてください」という
アナウンスがあって、新宿駅へ降りてみたけれど、全部電車は止まっており、
私は仕事場に電話しようとし、しかし、つながらず、仕事場=新浦安も当然とんでも
ないことになっているに違いないと思われ、そこで決断よく歩いて狛江へ戻ろうと
甲州街道を歩き出しました。
(新浦安は史上最悪レベルの液状化現象が発生し、首都圏の被害としては
突出するものがあって、大きな話題になりました。仕事場も傾いてしまったのです。)

そして甲州街道から西参道、代々木八幡を経て、小田急線に沿って歩き、
4時間ほど歩いたところで靴擦れがひどいことになって、義父のところへ立ち寄り
自転車を貸してもらったという次第なのです。

まさに8年ぶり!

この偶然に義父も感慨深そうでした。



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2019 3.11の想い




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2019 弥生雑記 2

今日やっとご近所様へのご挨拶。
5軒もあって緊張。
なにしろどこの馬の骨だか分からないのだから、私。
実際、自分でもよーわからんのやし。 ^^;)

これで少し落ち着きましたが、明日は濡れ縁の工事。
義父がどんどん環境整備をしてくださる。
ここでの日向ぼっこは最高で、Mooさんの家のと双璧。
Mooさんのところはゴーヤのカーテンが遮光してくれ、グリーンの世界。
右に目を向ければ、北アルプス。
こっちは小さな庭の樹木、そして塀越しの人通り。
歩く人はほとんどこっちには気づかない。

東京はまた雨が降り出しました。
3.10は東京大空襲の忘れてはならぬ日。
父は大学を中途にさせられ、川崎の高射砲部隊にいました。
母は動員されたのだったか、18歳で埼玉県川口の工場勤務をしていました。
二人ともこの空襲の劫火ともいうべき炎を遠くから見ていたそうです。

合掌。

そしてまもなく3.11。



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火消し同士の火事場での喧嘩

しかしまあ、立憲民主と国民民主の違いを論うことって、
今日本の民主主義が壊れている中、
なにかしらの意味を持つんでしょうか。

むろん袂を分かった同士がそう簡単に呉越同舟することも容易ではありますまい。
しかし、今話題の法治主義が、その概念を無自覚に口にし、
人治主義という対立概念をad hocで言えない人に壊されようという中、
一体「立憲」と「国民」の違いでやりあったりするのは、
火事が起こっていて、火消しが一番乗りを巡って喧嘩を始めてしまうことに等しい。

まさに日本の民主主義を取り戻すために、まずは火を消すというひとつのことに
当たって欲しいのです。



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2019 弥生雑記

ご無沙汰しました。

短信できるTwitterでは少しだけ消息を伝えておりましたが、
こちらはさっぱりになってしまい申し訳ありません。

無事世田谷区の某所に引越しました。
とは云え、荷物の整理や転入届、ご近所への挨拶などは終わっていません。

いくつかの点で非常に快適になりました。
それらの点を利して、いよいよより積極的な生活をしていきたいと思っています。
このことを可能にしてくださった義父に心から感謝しております。

*

夜の散歩は、しかし、ここでは到底できないと感じます。
多摩川はいつ歩こうがほとんど障害がありません。
むしろ午前0時を過ぎても、ラジオ深夜便などを聴きながら歩くのは楽しかった。
静かで、人通りなどほとんどないからこそのこと。

こちらでは同じことをすれば、それなり多くの人とすれ違い、
住宅地ばかりを通りますから、不審者扱いされてもしかたがない。
またゴールになる砧公園も、まず深夜徘徊する者がいればやはり不審者です。

いっそ多摩川へ自転車ででも行けばいいのですけれど、
自転車は今壊れており、修理するか新品を買わないといけない。
そんなに出費は今のところできません。

ゆえになんとか昼のうちに10km歩くサイクルを作らねばなりません。
これがなかなか大変です。

家から環8沿いの砧公園入り口まで1.7kmあります。
この距離が、多摩川ではなんのそのなのに、世田谷では心理的に非常に遠く感じます。
やはり住宅街や雑踏、busyな幹線道路を歩くからだろうと思います。
違うルートも知ってはいますけれど、大同小異です。

なにしろ多摩川の昼の景は毎日違います。
それがどんなにか楽しいか。
住宅地での変化は、せいぜい歩道から見える庭の草木の様子くらいです。
それも1日単位ではまるで変化はないと言っていい。

結論は、まあ、早く自転車を手に入れて多摩川へ行くことです。
歩いて行きますと(もちろん自転車で行ってもそうですが)、
着いて折り返して10kmになってしまう。 ^^;)

ああ、それが今のところ一番の悩みですが、贅沢なもんだと自覚しています。


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珍しく短歌で



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2019 如月毒吐き

いやあ、引っ越しは大変だ。
業者が前以って段ボールなどを調達してくれるんだけれど、
考えてみれば、梱包したものをずっと部屋に置いておけるはずもないじゃないか。
立錐の余地がどんどんなくなるのだ。
体の良い依頼者自主努力誘発だわな。
もう何回引っ越し先などに運んだことか!

あ〜、落ち着かないから『蹉跌』も書けない。
え?
書かなくていい?
んな!



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2019 如月雑記 3

沖縄県民の思いが示されました。
それを無視することを事前に宣言している現政権の驕りは言語道断です。
本当にもうウンザリです。

沖縄の多数派のみなさまに心からエールを送ります。

*

引っ越しが迫ってきて、なかなか気ぜわしいのです。
そんな中、びっくりするような古い写真などに出くわして、作業中断。
わっかいよなあ〜、って、私ばかりかMick師やスティックなども!

でも、まてよ・・・。
スティックだけは全然変わってない。
あれ、治雄ちゃんもほとんど変わってない。

ぎゃああ!

私は化け物と一緒にずっと音楽やっているんだね。



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2019 如月雑記 2

昨日3年間週一回2時間教えてきた高3生徒たちとの最後の授業でした。
すばらしい少年ばかりのクラスで、最後は嗚咽を抑えての幕切れでした。

一人はもうSt. Paulへの進学が決まっており、他の生徒はまだ受験中です。
みな優秀なので、きっと志望校に受かってくれると確信しています。

Professionalismについて最後の最後、話しました。
それの行き着く先は結局他者への思いやりなのだ、と。

自分の仕事をするー
それは確かに自分の糧を得るためのことでもあるけれど、
しかし、自分が得心できるある一定の高いレベルで完成させようという情熱は、
決して自己保存や自己満足のためだけのことではなく、
その作品=仕事を受け取る側への思いやり、誠実の証だということです。

さういふもので私はありたい。



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2019 如月雑記

昨日は相棒bassist岡野治雄ちゃんとLINEでやりとりをしました。

その中、彼は<生活的制約の中にあるからこそ、自由を求める精神がrock音楽を生む>
というようなことを書いて私は大いに賛同したものです。
そして治雄ちゃんは、そのrockにより生活的制約が解消されることを
目的化しないのですね。

Rock'n Rollはそれ自体が自由獲得という目的であるのです。

*

Kもまた本来的主体性をあるきっかけから取り戻す過程に入っています。
デザイナーとしてのK、ですね。
Professionalismこそ!

Kが泣いたんですよ、以下の話でね。

大昔、私がいた塾は、夏季合宿で志賀高原へ行く際、長野電鉄のバスを利用して
いました。東京・神奈川・千葉の生徒たちを乗せて、何十台も連ねていくのです。
私はある1台の「バス長」となって、児童生徒を引率・監督したわけです。

そのとき、私はバスの運転手さんの気配りだらけの運転術に感激して、
合宿地到着のとき、どれほど事故のないように細心の運転を心がけてくださったかー
みんなが車酔いしないよう、眠った者にはその眠りが安息であるよう、
いかにGを最小限にして運転してくださったかー
そして狭い道ですれ違うクルマなどにもどれほど友好的にまさに道を譲ったかー
それらを話し、児童生徒にまず大きな声で感謝の言葉を唱和しよう、
降車の際にも一人ひとり運転手さんに「ありがとうございました!」と言おうと
呼びかけ、彼ら彼女らはよく分かってくれ、実際感動的な別れになったのです。

私はそのときのことが忘れられません。

Professionalismー

Kは落涙しつつ、自分のidentityを重ねるデザインという仕事でそれを追求する
強い意志を確認しているのでした。



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2019 如月獨言

啓蟄が近づく中、昨日東京は冬服じゃ熱中症になるだろうというような陽気で、
夜になってもコートなどは要らない暖かさだったのです。
夜多摩川べりを歩いていたら、道をノソリノソリと横切る小さな影が。
ヒキガエルでした。
河原の土中から出て、公園の池へ向かっているというところだったでしょうか。

本格的な春がグンと近づいたのですが、春らしくない暑さの日があったりすると
本当にうんざりします。そうなる予感がします。

*

引っ越しが終われば、終活的録音をスタートさせます。
自分の埋もれてしまった歌や、歌ってみたい有名な曲に、
できるだけアコースティックギターだけの伴奏で、
なにしろvocalsに最大限の焦点を当てるoutputsにしたいと。

録音機材や、できれば12弦ギターも欲しくてね・・・
いやはや出費が嵩むのですけれど。
8パーセントでも十分に高い消費税率ですけれども、10月とかになったら
もっととんでもないことになってしまう。

腹を括らなきゃなあ。


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蹉跌集め V-34 [小説]

34

「諏訪盆地に入ると、川窪先生とピルヒーさんは何か緊張感のようなものを覚えた。
そこは1万5千年前とも言われる縄文時代初めからの歴史が綿々と繋がれている
場所なのだという想いがこみ上げてくるようだったんだ。
そして、中央構造線と糸魚川・静岡構造線の交わるところなのだ。
列島を一方は南北に分断し、もう一方は東西に分断する途方もない大地のズレが
直下で交わっていると思うと、恐怖すらも感じてくるのだった。」

「大体、諏訪湖って、大地が引き裂かれてできた断層湖でしょう?」

ケンスキーが言う。

「うん。構造湖、tectonic lakeだな。青木湖もそうだ。ただ、大きさは段違いだ。」

「でも、その水の恵みがあって、動植物が豊富な諏訪湖周辺はオリジナル列島人が
きっと踊りたくなるほどの居住最適地だったんでしょうね。」

楠子が言う。

「ここでは東の山になる霧ヶ峰で黒曜石が採れたしな。」

「ああ、鏃とかに使われる、破断面が鋭い石ですね。」

「そう。霧ヶ峰産の黒曜石はなんと青森の三内丸山遺跡でも出ているらしい。
正に鏃に使われたと。そう、三内丸山では翡翠も出ていて、糸魚川=姫川産である
ことが分かっているんだ。」

「日本海の船による交易は想像をはるかに超えるほど早期に行われているんですね。」

「そうだね。物の行き来は当然人の行き来でもあったわけだ。
そしてもちろん北との交易・交流ばかりではない。きっと日本海の西南地域、
つまり北陸や山陰、そして無論朝鮮半島との行き来も、縄文初期ではさすがに盛んでは
なかったろうけれど、徐々に起こっていったろうね。」

「建御名方は建御雷に追われて出雲から、あるいは四国阿波から諏訪に入るのでしょう?
これは陸路だったのか、それともやはり海路だったのか気になりますね。
出雲からだったなら当然海路で、糸魚川から諏訪へ。
阿波からだったなら陸路で中央構造線沿いにということになりますね、常識的に。」

「うん。淡路島経由で難波とかに入って、陸路若狭湾とかに行ってからそこから船って
いうのもないことはないだろうね。」

「なるほど。」

「で、お二人の話だ。」

堀田が話題を元に戻す。

「諏訪大社は、上社が縄文時代の色彩を色濃く残し、下社は農耕民族的だとよく
言われる。NHKの番組では、縄文人と弥生前期人とも言うべき出雲族との出会い、
融和の地が諏訪なのだ、とも。川窪先生もピルヒーさんももちろんその当時
そんな番組を見ているはずもないが、川窪先生は松本出身だから、
ある程度は諏訪大社のことを知っておられたんだ。

下社の方には御舟祭という行事があって、由来不明と言われているけれど、
海の民の安曇族が定着した安曇野でも祭りで船の山車が使われるから、
きっと下社は北九州の方からの弥生人によって建てられたのではないかと思っていたと
いうんだな。そんなことをピルヒーさんに話したと。」

「上社は縄文的ということでしたけれど、建御名方が土着の守矢氏率いる民と
融合していった、ということですかね。下社だって建御名方を祀っているわけですから、
こちらはその出雲族の農耕民族的性格をより際立たせているということですかね。」

ケンスキーが問う。

「まあ、そういうことなんだろうね。
で、ピルヒーさんはいずれの社にも強いシンパシーというかエンパシーというか、
ま、共感を覚えたと。
川窪先生は、ピルヒーさんの夢では建御名方だったんだけれども、どちらかと云えば
下社の方に感じたらしい。」

堀田は一旦話をやめて、バッグから写真を二枚取り出す。

「これなー」

その写真をテーブの中央に置く。

「そのとき、つまりお二人が諏訪大社の上社と下社でそれぞれ近くの人に撮って
もらったものなんだ。僕が形見分けでいただいたものさ。」

ケンスキーと楠子は手に取ってしげしげと見る。

「・・・このハレーションというかオーブというか、お二人を囲む光は何ですか?」

ケンスキーが訊く。

「そうなんだよ。もちろん、写真光学的に説明可能な現象とも言えるんだがー」

「が?」

「そう言い切れるか?」

「え、え?」

楠子が動揺する。

「こ、これって、なんか、人の形に見えません?顔もうっすら判別できるほどに
写っているんじゃないかしら!しかも二枚ともに!」

「え、どれどれ?」

ケンスキーがもう一度それぞれをじっくりと見る。

「げ。ほんとだ。これ、写真光学的な現象じゃないぞ!」


<つづく>






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さらば、大好きな多摩川の小径

引っ越しが近づいてきて、箱詰めなどの作業を始めています。
移るのは5キロ弱東北東ということになります。
だから、そう離れるわけではない。

しかし、一旦(なのか)狛江とはお別れだという想いはそれなり強いのです。
行こうと思えば電車でならすぐ、自転車でも多摩川べりなら10数分、
野川べりなら10分かからない。
なのにどうしてかー

今多摩川べりでは、洪水時の水の流れなどに支障があるというので、
相当数の木を伐ってしまうという計画があるようなのです。
特にショックなのは、狛江市の駒井地区の木立がかなり伐られてしまうこと。
特に自動車学校裏の木々は、河原の樹木と小径を挟み、
それはどこかの森や山道の風情を醸し出してくれるものなのです。

そこより少し上流部では1974年に家屋流出の洪水災害が起きたことがあり、
確かに温暖化の影響でもし大雨が長引くようなら同じことが起こっても不思議はない。
けれども、狛江市の多摩川周辺の景観が大きく損なわれるのは確実で、
私はそんなところを当分は歩きたくないのです。

伐られてしまう樹木の中、ここでも何回か写真を載せたネムノキがあり、
また花を咲かせた時に、遠目から全体が独特の淡い紫色になるセンダンがあります。
センダンは多摩川べりに多く茂っており、他のところで目にすることは可能ですが、
伐られてしまう個体は群を抜いて大きく、見事なものでした。
これに匹敵するのは、「五本松」と呼ばれるところの1本になってしまう。

洪水が万が一あった時に後顧の憂とならぬようにと言われてしまえばお終いです。

しかし、それほどの慎重さがあるのなら、同じほどに慎重であるべきことが
山のようにあるのではないでしょうか、この日本という国には。



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蹉跌集め V-33 [小説]

33

「青木湖で小休止し、小蓮華山と白馬乗鞍岳などの白馬の山々を眺める。
ピルヒーは、青木湖に映る森の色を見ながら、シクマから託された翡翠の勾玉を
あらためてまじまじと見た。

『シクマ君は、一貫して、つまり、何度も転生しながらもずっとこの勾玉を持っていた、
あるいは生まれるたびに手に入れたのかしら。』
そうピルヒーさんは言ったそうだ。
『それは僕なんかより、よっぽどピルヒーの方が分かることじゃないか』って、
川窪先生は答えた。
『それより、ピルヒーが今その勾玉を託されたことの意味を考える方が大事だろう』と。」

「常識的には・・・いや、そんなことばは無用な話ばかりなんだけれど・・・
生まれるたびに勾玉と再会していったと考えるのが妥当でしょうね。」

ケンスキーが言った。

「姫川=糸魚川産の翡翠で作られた勾玉、その製作地は糸魚川なのか、出雲なのか、
諏訪なのか、熊野なのか、大和なのか、伊勢なのか、それとも朝鮮半島南部なのか。
それとも北九州?」

楠子が言った。

「いずれにせよ、勾玉って何なんだろうね。」

ケンスキーが呟くように言った。

「諸説あるよ。」

堀田が言う。

「しかし第一感では、胎児の意匠じゃないかって思うな。
人間に限らず、魚類以上の動物の胎児ないしは卵の中の胚の発達では全く瓜二つの
かたちになるステージを必ず通るだろう。
その写真を見た小学生の頃、あ、勾玉だって思った。
その直観は今でも正しいって思える。」

「だとしたら、それは何を意味するのかしら。」

楠子が言う。

「胎児はふつう妊娠が途絶されない限り、そして体外に排出されるか、
あるいは摘出されない限りは目に触れないですよね。
おそらく流れてしまった勾玉状の胎児を目にしたということなんでしょうけれど、
だとすれば、この世に生まれ出ずることができなかった我が子への愛惜の念から
勾玉を作り出した人がいたっていうことかしら。」

ケンスキーも堀田も黙って考え込む。

「こうも言えるかしらー」

楠子がまた話し出す。

「例えばカエルの卵の中はよく見えますよね。春、至る所にあるカエルの卵。
卵割を繰り返し、人間の流れた胎児と同じ形になっているのを見たとき、
ヒトはinspirationを得るんじゃないかしら。
山川草木国土悉皆成仏っていう思想が平安期に生まれるけれど、
万物がつながっている、みな神仏の被造物であり、しかもそれぞれがカムイだという
考え方がふつうだった頃には、この<勾玉ステージ>とも言うべき発生の段階を
さまざまな動物が共通して辿ることを知ったなら、それはその思想を強く、強く、
裏付ける証拠だと思われたのではないかしら。」

「なるほど、すばらしい考察だね!」

ケンスキーは楠子の手を握りたいほどの衝動を感じつつ、感激の声を上げた。


<つづく>





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蹉跌集め V-32 [小説]

32

「1945年8月6日の朝、4歳のシクマと母親は広島の中区の、
当時の細工町の通りを歩いていた。
猿楽町の護国神社そばの自宅から出て南、元安川に面した浄土真宗の寺が在って、
そこに嫁いだ先の家の墓が在るんだ。
律儀な母は墓の掃除を三日は欠かさぬ人で、呉の中学で教鞭をとっている夫を午前6時に
送り出してから、500メートルほど離れた寺の墓地へ行ったのだった。
時はお盆近くでもあり、嫁ぎ先の親兄弟や親戚に気持ち良く参ってもらうためにもと、
草むしりを中心に涼しい裡に精を出し、いよいよ暑くなってきた午前8時、
傍でおとなしく遊んでいるシクマの手を取って歩き出し、相生橋の大通りに交差する
ところまで来た時にー」

堀田は絶句する。
楠子は下を向いてしまう。
ケンスキーは下唇を噛む。

「・・・そこはもう爆心と言っていいところだった。
黒焦げどころか、蒸発だよ、蒸発。」

堀田は「お冷をください」と店員に言った後、腕組みをして黙想する。

「シクマさんがそう記憶していたんですね。」

ケンスキーが言う。

「ああ。」

堀田は水がコップに注がれるや、祈りを捧げるようにしてから一口飲んだ。

「そのひどい死に方で、シクマはますますこの世を救う道を志したそうだ。
森の精、森の番人を超えてな。

そのときは東区の光町に住んでいたピルヒーさんだが、
朝鮮学校の採用試験などために東京から広島に来て宿泊した前年のことを
思い出していたそうだ。
泊まったのがそのシクマ母子が受難した辺りの三川町のホテルで、
夜悪夢に魘されたのだそうだ。
まさに母子が強烈な熱線で一瞬にして気化してしまう夢だったと。
シクマはうんうんと頷いたそうだ。」

「もうピルヒーさんが、シクマさんの師匠ソンヒーさんの末裔、それも、
ハマイバ丸にまで来た最も因縁深い子孫であることを知っていたんですね。」

楠子が言う。

「そして出雲と広島の縁で結ばれていることも。」

ケンスキーが付け加えた。

「シクマは小谷役場にある『友情の鐘』を撞いてきてほしいと言ったそうだ。
イングランド南部のOttery St. Maryと信州小谷村が言葉遊びでつながったことは
本当にシャレであり、遊びだけれど、幕末や明治初期に日本のありように隠然たる
影響力を及ぼしたアーネスト=サトウが大町に来、後立山連峰を踏破して富山に至った後、
帰国した先がオタリ・セイント・メアリで、彼の終焉の地となり、そこの出身の
ポール・マデンが英国大使・公使の後輩として友情の鐘を撞いたのだ。
これをただの偶然としておもしろがる<くだらぬ>遊びでしかないと思う者は愚かだ。
遊びにこそ人類の本質がある、とまでシクマは言ったそうだ。」

「ホモ・ルーデンス、ですね。」

楠子が堀田のことばに反応して言った。

「遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源である。
遊戯は生活維持を求める生物学的活動を超え、生活に意味を与えるものである。
1938年発表のHome Ludens、オランダのホイジンガの思想です。
この思想の持ち主は、もちろんナチのオランダ統治には批判的でしたから、
拘禁もされました。そして広島原爆投下の年、1945年に亡くなりました。」

「すごい!」

ケンスキーも堀田も唸るように言った。

「遊びが<文化を産み出す>、ここが大事だね。」

ケンスキーが言った。

「そうだ。
そして川窪先生とピルヒーさんは、広島カープの帽子をかぶった少年のシクマを
それぞれしっかり抱きしめてから、千国街道南進の旅を続けたんだ。」


<つづく>




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Mooさんによる『蹉跌』PDF

再度のお知らせですが、Mooさんが『蹉跌』をPDF版でまとめてくださっております。

http://www.moo-azumino.com/main/Diary/2019.2/diary2019_2.html

畏友中の畏友からこうしてご協力をいただき、
なにしろ物語自体を楽しんでいただいていることは身に余る光栄です。

なお、上の記事中、降雪に喜ぶ酔狂な私のことが書かれています。
安曇野・池田町の雪は何度も経験していますから、どれほどにそれが本格的か、
そしておそらく我が故郷よりどれほど気温が低い中でのことかも知っています。
それでも、まだまだ私はそんな中でも雪を楽しみに外へ出る<勇気>はあります!(笑)
まあ、毎日のようなことになってしまえばうんざりするのは目に見えていますが。



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蹉跌集め V-31 [小説]

31

「シクマは言うんだ、ぼくは秩父山系の森の聖者の弟子だ、と。」

ケンスキーも楠子も口をポカンと開ける。

「そうさ、ピルヒーさんの大御先祖、高句麗人のユ(柳)・ソンヒー(孫羲)さんが
化身した、あのハマイバ丸で出現した<フンババ>の弟子だと。
東日本の山々を守る日本版フンババたちは、諏訪大社に年に一度集まるんだ。
ちょうど出雲大社に10月、神様たちが集まるようにな。
そこでシクマはソンヒーさんと出会った。シクマは前任者ウタリから後立山連峰の
森の精霊<職>を受け継いだばかりの頃、ウタリの親友のソンヒーさんからいろいろと
指導を受けたんだそうだ。」

「ピ、ピルヒーさんは、もう、びっくりなんてもんじゃー」

「ああ、もちろんだ、大野。
シクマは、自分の先祖はむろん数えきれぬほどにたくさんいるけれど、
明治期、父方は降旗(ふりはた)という人で、安曇野にはかなり多い姓なんだ。
『ふりはた』、『ふるはた』とも読み、表記も数種類ある。
古い畑と書くものでは『こはた』とも読ませる。
なにしろ<はた>だよ。
長野には羽田と書く政治家一家がいるだろう?彼らは秦氏の子孫だと言っている。
八幡信仰も千曲市八幡に在る武水別神社(たけみずわけじんじゃ)が有名だ。
京都府八幡市の石清水八幡宮の荘園でもあったというほどつながりが深い。
むろん源氏が崇敬し、木曽(源)義仲が参拝したという言い伝えがある。」

「源氏が行くところ八幡神あり、ですね。」

ケンスキーが言う。

「前九年・後三年の役でも頼義・義家父子らが東北に八幡信仰をもたらしました。
岩手の八幡平なんてその典型ですよね。」

「うん。」

堀田は頷く。

「信州にはまず古墳・飛鳥時代とかに秦氏や安曇氏一族が入り、
だいぶ後に源氏も入ってきた。
その西からのルートも2通りだろう。浜松あたりから中央構造線を辿るようなルート、
そしてもちろん日本海を使って糸魚川から入る、糸魚川・静岡構造線を辿るような、
と言うか、正に辿るルートだな。」

「その2本の構造線が、諏訪で交わるんですよね。」

「そうなんだ。ほんとに詳しいな!」

「MNEMOさんの『トーホグマン』で知りました。」

「誰それ、何それ。」

「何度か誰か何かは言ってきましたが、別にいいです。」

「で、シクマは、これでもう十数回目かの秦・源氏関係の家での誕生だ、と。」

「え、どういうことですか。」

楠子が聞く。

「うん、同じほどに先住民の縄文系や縄文系が色濃いの家にも生まれたと。
もちろん、長野でばかりではない。シクマに拠れば世界中で生まれてきたそうだ。」

「世界中!」

「そう。シクマはなんとメソポタミアでも生まれたことがあるそうだ。
そしてレバノンでも極く最近・・・と言っても2世紀前だそうだが、
ムスリムではあるが、非常に土着信仰にも篤い家に生まれ、レバノンスギを尊んだ。
ある日、今は世界遺産になっている『カディーシャ渓谷と神の杉の森』で遊んでいる時、
フンババに出会ったんだそうだ。

フンババは今更ながらフェニキア人がレバノンスギを伐り過ぎたことに怒り、
憤激ジジイになっていたそうだ。」

「ぷ。」

ケンスキーが微笑した。

「そしてその後また日本で生まれ、数回目か熊野に生まれて、
これも中央構造線上でな・・・かなり修行をしたらしいんだな、山伏になっていたと。
構造線を知らずに東に辿って、伊勢神宮にも辿り着いて驚いた、とも。

そしてさっき言ったとおり明治期に降旗の家に生まれ、林業のかたわら、
狩猟にも関わったそうだ。
北アルプスは自分の庭のようなものだったと言うな。
それでも、東筑摩郡麻績(おみ)村という、北アルプスとは構造線を挟んで反対側の
山間の村で仕事をしている時、熊に遭遇したということで鉄砲を構え、
さあ引き金を引こうという段で、それが熊ではないことにすんでで気づき、
平謝りに謝ったそうだ。
しかし、本当に熊のような異形の人間だったので、しげしげと見つめていると、
その異形の者は自分を<東山の森の精>だと言ったそうだ。
名はクンネアミと言ったと。そしてシクマに過去生を思い出させる儀式を行った。」

「儀式?」

「麻の葉っぱを燻してー」

「やば。」

「その東山の森の精は、シクマに比婆山の話をしたそうだ。」

「比婆山って、確か広島県庄原市と島根県奥出雲町の境に在るんでしょう?
・・・あ、また奥出雲!」

「そうなんだよ、大野!Oh, noだよ!」

座が凍りつく。

「自分はそこで修行をしたと。なぜなら古代、自分は出雲族の一員であったからと。
しかも、大国主が入ってくる前の比婆山の<森の人>の血も入っていたのだと。
そのゆかりがかなり強く、何度も中国山地に生まれついた。
そして、建御名方の出雲族として信州に縁を持ち、先に入っていた安曇族と
さらに諏訪を中心に住んでいた縄文人との血が混じる子としても生まれたことがあると。
ただ、諏訪周辺の森の精の分布はなかなか過密で、人気も高いらしい。
・・・いや、決して後立山連峰の人気が低いわけじゃないんだが。

そしてシクマはもう一回人間で生まれるんだ。
比婆山出身で、竜王山の伊邪那美命を祀る熊野神社の巫女を務めた女性の子として。
その人は広島市内に夫と所帯を持つ。
昭和十五年のことだったそうだ。」

楠子とケンスキーは、それから起こるであろうことをなんとなく想像できて、
身構えるのだった。


<つづく>





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2019 如月獨言

今朝はかなりショッキングなことを知ることになって、
書いていた「蹉跌」の31回が以降書けなくなってしまいました。
そして、こんな戯作、これ以上どうでもいいじゃないかとも思えて。

思わせぶりになるのは嫌なので、少しだけその問題のことを書けば、
私を含め、肉親や友人知人の健康についてのことではありません。
また、この国や世界の情勢、出来事に関わるものでもありません。

しかし、必ず気を取り直さなければいけない。
そうじゃなきゃ、人生が<ただ>食って寝るために働く目的で使われることに
なってしまう。

それでも、その問題について、私ができることはしようと思っています。


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蹉跌集め V-30 [小説]

30

「それで、その男の子、シクマくんは?」

楠子が訊いた。

「うん、それがなー」

堀田が2杯目のアールグレーを飲み干す。

「お姉ちゃんを待っていた、って言うんだ。」

楠子はこれ以上ないほど真剣な顔つきになる。

「シクマはそう言って、コンビニの裏手の方へ歩き出す。
その裏手っていうのは、乗鞍岳や白馬岳の東の山麓に当たる。
麓と言っても、木々に覆われた低い山が在ってな。
小谷は東西両方を山で囲まれた狭隘な土地だから。

ピルヒーさんと先生はシクマを追う。
三人は斜度が結構ある林に入って行く。
雨は止み、ヒグラシが鳴いていたそうだ。

シクマはこう言ったそうだ。

『お姉ちゃん、もう少し南の方へ行くと、小谷の役場があるんだ。
そこにね、小谷村がイギリスはデヴォン州オタリ・セイント・メアリと姉妹都市に
なったのを機会に<友情の鐘>が据えられることになっているんだ。』」

「シクマくん、そんな複雑なことを言えるんですね。いくつくらいだったんです?」

ケンスキーが訊く。

「な。おもしろいよな。なんだか、シクマは『年齢が揺れるような子』だったと。
先生もピルヒーさんもそう形容していた。」

「ふむ。」

「でだ、オタリ・セイント・メアリというイギリス西南部とのゆかりは
全然ないのだが、<おたり>という同じ音を共有するがゆえというんだから
正にシャレているじゃないか。」

「まあ!そういうの好きです!」

楠子が顔を輝かせて言い、ケンスキーも笑う。

「ところが、ところがなんだ。
シクマの話から、縁もゆかりもないと思っていた小谷村とオタリ・セイント・メアリを
結ぶ人物がいることが分かったんだよ。」

ケンスキーと楠子が真顔に戻る。

「まずは、アーネスト=サトウさ。」

「名前は聞いたことがありますが・・・。」

ケンスキーが言う。

「幕末から明治期に何度も来日したイギリスの外交官さ。
このサトウの終焉の地がオタリ・セイント・メアリなんだよ。」

「ほう。で、そのサトウと小谷とのつながりは?」

「直接にはない。ないけれど、サトウは大町から富山に抜ける立山新道という
ルートを通っているんだ。」

「え、そんな道があるんですか?」

「1880年に有料道路として開通し、たった2年で閉鎖になったんだけれどね。
千国街道が塩の道で、長く糸魚川の塩商人と松本藩との交易の道だったわけだが、
糸魚川側の言い値になってしまうこと頻々で、中信(中信濃)地区の人々は、
だったら富山の塩を買い付けられるルートを持とうとしたわけだな。」

「なるほど。」

「今は針ノ木古道と言われているらしいけれど。
サトウはそのとき、日本の姓の佐藤との類似に自身が興味を持ったように、
<おたり>という、祖国のデヴォン州にある地名と、大町の北の村名との類似に
興味を持ったのかなあ。」

「おもしろい話ですね。」

楠子が言う。

「シクマは、もう一人のゆかりの人物のことを言う。
その『友情の鐘』の設置に、英国大使館の一等書記官、
ポール・マデンが深く関わっている、と言うんだ。
マデンはもうすぐ日本駐箚英国大使になる人だ、とすら言ったんだが、そのマデンが、
なんと、オタリ・セイント・メアリの出身なんだよ!」

ケンスキーと楠子は仰天する。

「マデンはサトウ同様に親日家で、ケンブリッジで経済地理学で修士号、
ダラム大学でMBA、そして王立地理学会のフェローでもある。
<おたり>のシャレは、彼が思いついたんじゃないかなあ。」

「マデンてどう綴るんですか?」

ケンスキーが訊く。

「Maddenだわ。」

楠子がもうスマートフォンで検索していた。

「え?それじゃ、発狂させる、怒らせるっていう意味じゃないか!」

ケンスキーが半ば呆れて言う。

「でもそれはアイリッシュ・ゲーリック語のÓ MadáinをAnglicizedしたものよ。」

「おお!」

ケンスキーは楠子の美しい発音にも感動する。

「それにしても、Ó MadáinをMaddenにしてしまうって!」

「Lennonも本当はÓ Leannainだった。Johnの家系もアイリッシュでしょ。」

「そっか、大塚さん、John Lennonのことに関心があるんだね。」

ケンスキーが好意いっぱいの輝く眼差しを楠子に向けて言った。

「おいおい。」

堀田が割って入る。

「シクマの話はさらにすごいんだ、進めるぞ。
どうも話がどんどん横道に逸れて困る!」

ケンスキーはまるでMNEMOの小説への批判のように聞こえて、独り笑った。


<つづく>





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蹉跌集め V-29 [小説]

29

「京都で国道8号に入り、さらに北上して行く。
ドライブインの駐車場で仮眠をとったりして、午後も3、4時くらいの富山県
魚津でのことだった。川窪先生は道路上でカラスを轢いてしまうんだ。」

楠子が顔を歪める。

「止まろうと思ったが、後続車の迷惑を考えるとそうもできず、
結局どんどんと現場から遠ざかってしまい、片付けや弔いを諦めた。
しかしそれ以降ずっと嫌な気分だったと言うんだな。」

「そうでしょうね。」

ケンスキーが相槌を打つ。

「糸魚川ではすぐにでも雨が降りそうな暗い曇天で、これから山道だと思うと
心の中、不安が過ったそうだけれど、とにかく148号線に入り南進する。
長野県北安曇郡小谷(おたり)村に入って、いよいよ雨が降り始めた。

おむすびみたいな格好の緑の山を左に見て、先生が小腹が空いたということで、
おそらく村唯一のコンビニに右折して入ると、駐車場に、雨に濡れている少年が
佇んでいるんだそうだ。

ピルヒーさんは心配して、車外に出るや、その少年に声をかけた。
坊や、ママやパパは一緒なの、というように。
するとその少年は首を振る。
川窪先生は店に入って、あの少年は独りなのかと店員さんに聞く。
店員さんは見知らぬ子だ、さっきからずっと駐車スペースのところにいる、
雨が降り出したので、こっちも心配していたところだ、と告げる。

先生はピルヒーさんと少年のところへ戻って、少年に誰を待っているの、と聞く。
白いTシャツと短パン、そしてなぜか広島カープの赤い野球帽をかぶったその少年は、
モジモジとして、ポケットに手を入れ、何かを掴み、膝を折って少年の目の高さで
彼を見つめていたピルヒーさんの目の前で、握っていたものを見せた。」

「な、何だったんですか。」

ケンスキーが固唾を呑んでから、そう訊いた。

「翡翠の勾玉だった。」

ケンスキーは腕組みをする。

「勾玉は朝鮮半島でも見つかるそうですね。
しかし、確か翡翠製の勾玉の成分が姫川=糸魚川産のものだと分かったと。
翡翠は東アジアでは少なくとも姫川=糸魚川でしか産出されないと聞きました。
三内丸山の縄文遺跡の勾玉も姫川産だと。」

「いやあ、ほんとに驚くよ、大野。よく知っているなあ!」

堀田はまた大いに感心する。

「そうなんだ。つまり、翡翠の勾玉は朝鮮半島に渡ったわけだ。
ここでも環日本海文化圏の具体的ありようが見えるようじゃないか。
美しい翠の玉がいかにその当時の列島人や半島人に貴ばれたか!」

「その少年はどうして翡翠の勾玉をピルヒーさんに?」

楠子が訊く。

「そうだった、その話の続きだ。」

堀田が言った。

「ピルヒーさんは、これ、どうしたの、って訊く。
少年はピルヒーさんの顔をしみじみ見て、そして『ママ!』とでも言いたそうな
甘えた表情をしたそうだ。

ピルヒーさんもなんだか切ないほどに少年を愛おしく思ったと。
名前はなんて言うの、って少年に訊く。
少年は『シクマ』と言ったそうだ。

川窪先生は、漢字でどう書くの、って聞いたと。
少年は怪訝そうな顔をしたと。
二人は後にいろいろとこの<シクマ>という音列の意味を調べたそうだ。
国道148号線は塩の道で、千国街道とも呼ばれるー」

「あ!」

ケンスキーが叫ぶ。

「MNEMOというシンガーのブログで読みました!
千国というのは、どう考えてもa thousand countriesであるはずがない。
小谷村なら、越後だけと接し、白馬村で越中とも、また大町市で飛騨とも接するけど、
地元信州を入れても4国でしかない。
<チク二>とは、アイヌ語で<木>、woodのことなんだと。

黒澤明の『夢』で撮影地になった安曇野市の大王わさび園の<大王>とは、
安曇野の縄文先住民の王で、安曇野もアイヌ文化圏であったのではないか、
縄文人=アイヌ民族と断言まではできないにしても、と。

だから、その少年の<シクマ>という名前も、もしかしたらー」

「そうなんだよ!」

堀田が大声で応えた。

「シクマはアイヌ語で<峰>を表すんだ。」

「シとチはよく入れ替わりますから、長野の地名の千曲=筑摩もそうかも
しれませんね!」

楠子が言った。

「う〜ん、そっか、そりゃすごい!」

堀田は目を丸くし、賛嘆した。



<つづく>






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2019 如月随想 <大志>

大志は大志ゆえに実現がむずかしいのであり、それなりの実現努力を重ねても
徒労に終わったり、目ぼしい業績なしということになるのはふつうのことだろう。

価値観が多様化した今、それでもやはりいかに商業的・経済的成功につながったのか
というのが世界共通に価値あることと見做され、
そのこと自体が大志ということだった、などという事態になってしまうこともあろう。

私にとっての大志は、中学の頃にぼんやりと抱き、21歳のときにはっきりと他者にも
言うようになった、「ネイティヴではないけれども英語による歌を自作し、
世界に雄飛したい」ということであった。

「世界に雄飛」の機会というのはEUROXでほとんどすぐに到来した。
何度も書いてきたので恐縮ながら、Mick師やレコード会社のご努力もあって、
Cold Lineというデビュー曲はイタリアのWarnerから発売され、
B面のOut of Controlを評価するアメリカのWarner Bros.からリリースの打診が来た。
さらにUKのWarnerからは、当時の大物バンドLEVEL 42の国内ツアーに
前座として出ないかというオファーが来て、そのままデビュー・アルバムもイギリスで
録ってしまおうという計画ができたのだ。

しかし私は、作詞と歌唱、さらにSUNTORYの飲み物のCMに使われた楽曲も作ったから、
EUROXの音楽的方向性を決めていく上では、バンマスのHenriくんをある意味では
凌ぐ立場になっていた。

ふつうは、そういうことなら喜び勇むのだろうけれど、私は逆だった。
その重い責任を負えるほど自分にはもはやストックがないと感じていた。
いや、感じていたどころか、事実としてはっきり認識、痛感していた。
歌唱に関してはほぼ全く不安はなかったけれど、特に詩については早々モチーフの
底がついていたのだった。

詩はロックでは音楽に劣らず重要で、そのふたつが互いにもう一方を生み出していく。
そして私の、期待される新たな詩からメンバーたちの音楽的反応を引き出せる
自信はもはやなく、井上大輔さんやHenri君が書く曲に、EUROXというバンドの
存在意義に直結する<固有のことば世界>を乗せられるという自信もなかった。

EUROXは、すでにデビューし一定の評価を得ていたTAOのオリジナル・メンバー
3人が母体で、Mick師の仲立ちがあって私がvocalistとして入り、
後に栗原君が加入してできた。つまり、アマチュア時代の修行を共に過ごしてきた
メンバーたちばかりということではなかったのだ。

私は早速治雄ちゃんと馬が合って、彼こそがEUROXに私が感じる最も大きな拠り所に
なってくれたのだけれども、私の特に作詞家としての不安は募っていき、
しかしその不安を、友人として、それなり長い歴史を共有するバンドメイトとして、
払拭してくれる、払拭できる人は、もちろんいなかったのだ。
出会って数ヶ月で、トントン拍子に上で書いたようなことが起こり、
CMソングもさらに数本担当させていただき、なにより、
『機甲界ガリアン』のOPとEDのお仕事をいただけたことは本当に今にしても
信じがたいほどの僥倖だった。

それでもそのスピードに、情けないことに、私は結局ついていけなかったのだ。
EUROXには1年もいることなく、私は逃亡してしまった。


私は、ゆえに、自分の大志を当時実現するにはあまりにも未熟だったのだ。
志だけが先行し、しかし、恵まれ過ぎと言えるほど順調無比なデビューとなって、
己の底の浅さへの自覚が腕を伸ばす筋肉を萎縮させ、
幸運の女神の横髪も後ろ髪も掴めなかった。

そしてそのときから、勉強が始まった。
自分の大志は大志として、では<いかに>世界に訴求力ある詩世界を確立し、
曲にして歌うのかー

それよりもまず、<なにを>歌うのか。


私は『トーホグマン』や『蹉跌集め』でも歌っているつもりだ。
私の詩のモチーフが、そのまま散文になっている。
もちろん普通の記事もそうだ。

Peace & Loveしかないじゃないかー
そう思う。
<なにを>歌うのかは。

その結論なら若い頃にも言っていた。

しかし、これほどに齢を重ねてきて同じモチーフのことを口にするとき、
全くその確信の度合いが違うのだ。


昨日「加賀美幸夫」ちゃんと話した。
幸夫ちゃんは、ずっと継続するこのブログのことを褒めてくれた。
その継続の中、共感者がその多寡を問わずにとにかく現れたことを賞賛するのだ。

<周りの世界の再認識>が、昨日の話の核心だったと思う。

「MNEMOさんの記事を読んで、そういうことに気づかされた人は少なくないと
思いますよ」と幸夫ちゃんは言ってくれた。

私は膝を打って、

「そういう方がいてくだされば幸いだけれど、自分のことを言えば、
最近だと何と言っても多摩川から見える秩父・奥多摩の山々の名の同定が大きな
喜びにつながったんだ」

と言ったのだ。

名をつけること、名を知ることについての考察は数ある。
今憶い出すのだと、平安時代、まあ、これは高貴な女性たちの話ではあるが、
決して<本名>を名乗ることはなく、「〜の娘」としてしか公に出ないー
しかしもちろん名はあって、それを知るのは親兄弟姉妹と、
夫になる者だけだったという話。

私が好きなテーブルマウンテン状のはるか西の山が「ハマイバ丸」という名であると
自分から調べて知って、そしてその不思議な音韻から名の由来をも知りたくなり、
それを知ればますますその山は私に<近く>なって、
健康でいられれば、必ず私はハマイバ丸に登りたいと今思っているのだ。

ハマイバ丸の名を知ったとき、私は本当にこの山の<夫>になった気分だった。


詩は<名まえだらけ>だ。
例えば「沈丁花」と私が歌えば、聴いてくださる方も<あの花>と想起し、
<あの香り>を思い出す。
歌っている私は、「沈丁花」は<あの、どこどこに咲いていた沈丁花>を思っている。

ハマイバ丸は固有名詞、世界にこの名を持つ山は他にない。
そして私にとって、<その沈丁花>は固有名詞と言ってもいい。
普通名詞だって、実は固有のものの集まりだ。

良いsingerは、詩の中の普通名詞を固有名詞として歌い、
さらに聴いてくださる方々の同種でしかし固有のものを想起させられる者のことであろう。


<私の大志>は変化した。
ネイティブではない私が英語による歌唱で世界に雄飛する、なんて。

<ただ>自分が関係を深くしたこの世の、周りの世界の存在を、愛おしく歌うこと。





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