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蹉跌集め II-12 [小説]

12

光と幸嗣は和泉多摩川の駅を降り、土手道へダッシュして向かう。
電車の到着が相当に遅れたのだ。相模大野駅で「人身事故」があったというのだ。
もう小田急だけでも今年何件めの「人身事故」だろうか。

「ひゃあ、あと1分もないぞ!」

幸嗣が叫ぶ。

「場所は俺が住んでたアパートの前辺りだ。あと300メートル!」

光が応える。

なんとか間に合って到着し、二人はゼイゼイ息を切らす。
気づくと、虫の音が聞こえている。
か細い声だが、気分を落ち着かせてくれる。

「なんか、呪文とか要るのか?」

幸嗣が訊く。

「どうだろうな・・・。ああ、一番いい<呪文>がある。」

「?」

「悠奈、悠奈、佐藤悠奈の友人です!木野先生、できればお出ましを!」

「お前、選挙カーのウグイス嬢じゃないんだから。」

幸嗣が笑って言うと、

「困った人たちだね」

という声が草むらから聞こえる。

「え?木野先生、どちらですか?」

光が尋ねる。

「今回はコオロギになってみたよ。」

「ええッ!今回って?」

「前回悠奈ちゃんと逢ったときは、月にかかる群雲になって出た。」

「そ、そうなんですか。」

光はタジタジとなっている。

「で、なじょした。」

「は?」

「ハハ、いやね、今サンフランシスコのMNEMO君のところに居てね。
彼、同郷のナースさんと會津弁で話していたもんだから。」

光と幸嗣は面くらっている。木野先生はこんなキャラなのか。

「というか、君らが私を訪ねた理由は知っているけれどもね。」

「・・・では、お答えくださいますか。」

「私だって世界に平和をもたらす術を知っていたら、とっくにそれを発揮していたよ。
仏はむろん滅諦ということを説いて、苦の原因の欲望こそを滅ぼせと言っているし、
それに尽きてしまうんだよ。でも、そんなこと、人類全員ができるはずもない。
私だって、欲の完全消滅になど、まったく達し得なかったよ。」

「では、仏法は無力ですか。」

幸嗣が問う。

「いいや、アヒンサー、すなわち殺生戒はどの宗教にも負けない教えだ。
さらに常不軽(じょうふきょう)、常に他を軽んじないこと。」

「おお!」

法華の幸嗣は歓声をあげる。

「しかし、最も大事なことは・・・フリリリリ。」

「?」

「す、すまん。コオロギになりきってしまった。」

「・・・。」

「最も大事なのは、やはり、色即是空をみなに知らしめることではないかな。」

「般若心経ですか。」

幸嗣が体を乗り出すようにして訊く。

「いや、般若心経は短いとは云え、むずかしい。万人に訴えるというには、ね。
だからそのエッセンスである色即是空だよ。」

「その御心は?」

「私は学徒動員で工兵将校となって中国にいた。敗戦となって中国軍と戦後処理の交渉を
していたんだが、私の上司の少佐が実にどうにもならぬ男で、兵団長の命令を無視し、
違背する命令を下したがゆえに私の部下を含む将兵たちが中国軍に殲滅されてしまう
危機に陥ったのだ。私は彼を赦せず、殺してやると日本刀を抜き身にして彼のところへ
走って行った。その途中、日本人のおばあさんが、私を怖がらず、道を塞ぐようにして、
『どこのお方か知らんが、恐ろしいことや』と言ったのだよ。
私は電撃をくらったようになって、立ち尽くし、青菜に塩のようになって兵舎へ帰った。」

「・・・。」

「私の広島の家族はもうそのときほとんど全滅していた。広島壊滅の噂はもちろん
聞いていたし、それが原子爆弾によるものだということも知っていた。
私の自暴自棄はある意味当然だった。」

光と幸嗣は何も言えないままに項垂れて聴いているのだった。

「もう、どんなことを私がしようが、どうでもいいのだよ。待っている人はいない。
そしてさらに無益な死をもたらそうとした上司を袈裟懸けに斬って、私も死のうが、
あるいは捕らえられ死刑になろうが、そんなことはもうどうでもよかったんだね。

しかしそのおばあさんの一言が天の声だった、本当にね。
アヒンサーだ、常不軽だとそれまで学んで唱えてきても、この様だ、と。

そのとき私の頭の中で、物は空であるという教えが、色即是空の四字がグワーッと
浮かび上がったんだよ。東大に戻って、原子核物理のことも囓ってね。
色即是空というのを仏教学としても、物理学としても学ぼうとした。

湯川秀樹博士が、昭和24年ノーベル物理学賞をとった。陽子と中性子を結びつける
『核力』について、彼は『中間子』の存在を予言し、それが証明されたことによる
受賞だったんだよ。しかし彼はそれで終わらなかった。素粒子の奥底を見ようとした。
『点ではない点』とか『拡がりのある点』とかということばも生み出した。

やはりノーベル物理学賞をとった南部陽一郎博士が後に色即是空のことを書いた。
物質の究極は『空』だと。湯川博士が、『素粒子の奥にあるものが、さまざまな素粒子に
分化する前の、まだ未分化な何物かであるのかもしれないと思った。それはいままでに
知った言葉でいうならば、渾沌というものであろうかと思った』と言われていたが、
それが後の実験で、<陽子を壊すと素粒子が飛び出し、クルクルとダンスをして消える>
ということの予言なんだよ。

物質の素は虚空に消えてしまうんだ。なくなってしまう。つまり、逆に言うと、
<ないもの>から物質はー私たちはーできているってことさ。
John LennonはNowhere Manと言ったが、Nothing Manなんだよ。
男ばっかりじゃないが。

そのことを湯川博士は後にこう和歌にしたそうだ、中野正剛さんによるとね。

天地は逆旅なるかも 鳥も人も いづこより来て いづこにか去る

『渾沌』こそ『空』なのだね。老荘思想が大好きだった湯川博士らしいことだ。ハハハ。」

木野に笑われても、光と幸嗣はついていけなかった。
こんな話では般若心経全体解釈に劣らず難しい。

「湯川博士もね、東京生まれだが、紀伊田辺藩の儒学者の孫だし、和歌山人だよ。
うれしいことだ。」

「実は、先生、僕ら今まで下野紀党の末裔と話していたんですよ。」

幸嗣が言う。

「紀古佐美の子孫かな。君らに紀の匂いが移っているよ。だから今回は君らの
リクエストに応えようと思ったのさ・・・というのは冗談だが。」

悠奈の名前でひっかかったんでしょ、と光は言いたかったがグッと抑えて、

「じゃあ、トキちゃんのおかげかあ。なにしろ紀伊国(きのくに)つながりですね」

と言った。

「そうだね。悠奈ちゃんも熊野様の藤白鈴木氏の血が入っているし、なにしろ鈴木
九郎さんとの縁を強く感じているだろう。彼女が私とここで<波長>が合ったのも、
そのつながりだね。なにしろ私の長く勤めた職場も中野坂上に在ったしね。
もう少し早くあの辺りで会っていればよかった。」

「は?」

「とにかく、色即是空だよ。空無から生まれた物質、宇宙、生命なんだよ。
心臓にある虚空はアートマンと言い、その虚空が外界、宇宙全体という虚空、
すなわちブラフマンにつながっている、ないしは同じものなのだ。
これを梵我一如というのだ。

いいかい、空無なる物質でできた我々は、空無だからこそ宇宙とつながっている、
あるいは一体なんだよ。そのまさに気宇壮大な事実に向き合うこと、
色即是空の四字を広めること、それが鍵だろうね。

夜露が甘い。」

そう言って木野はフリリリリと一声鳴いていなくなった。


<つづく>




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