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蹉跌集め II-6 [小説]

6

MNEMOはある日病室でもう二度と何をも見ることができないことの意味を
考えていた。頭の中ではその美しさに賛嘆してきた光景が見える。
たとえば6月のザクロの花と葉のみごとなコントラスト。
朝夕の多摩川。
青い空と浮かぶ真っ白い綿雲。
九十九里の日没前、銀色に光り輝く遠くの波打ち際。
娘や友人たち、音楽の仲間たちの笑顔。

もう<リアルには>見ることができなくなったのだ。

もし自分が絵描きだったら、絶望的なことだった。
耳を撃ち抜かれていたら、それは脳を貫通するということだから、生きてはいなかった。
シンガーとして声帯と共に何より聴覚は生き残った。けれど、あとどのくらいであれ、
一生残ってくれるだろうか。不安になった。

Living is easy with eyes closed

John Lennonはそう歌った。
「目を閉じていれば、生きていることは容易い。」
いろいろなことが見えてしまうことで乱される心の平安というのは確かにあろう。
嫌なこと、都合の悪いこと、無関心なことを見ずに済めば確かに心安らかなことだ。
しかし「目を閉じている」ということは<開ける>時があるのが前提だ。
自分はもう永久に目を開けることはできなくなったのだ。

「俺にとって歌は本当に頭の中でのことになった。」

MNEMOはそう思った。
外界とつながっているという実感は第一義的に視覚を通じて得られるものだ。
むろん他の4つの感覚も重要だけれども、視覚ほど明らかなものはない。
なにより「明らか」という言葉は視覚あってこそのものではないか。
歌はつながろうとする営為だと信じてきた。
そのつながりを明らかには実感できなくなったのだ。

「歌で他者に想像力を喚起させたい自分こそ、ほぼ想像力のみで歌をつくり、
歌うのだ。」

これから生涯ずっと暗闇の中で過ごす自分は、光届かぬ深海や洞窟の奥底に生きる
ものたちと同じようでしかし違う。なぜならその生き物たちは決して光ある世界へは
出てこないのだから。自分は光ある世界で、現に光溢れるときに、暗闇にいるのだ。
そして厄介なことに、その光溢れる世界の記憶がある。それは慕わしく、しかし、
自分を絶望的な気持ちにもさせるだろう。

思いに耽り、そして塞ぎ込むようになったMNEMOを小梅屋清は懸命に励ました。
いや、無用な励ましなどかえって逆効果であることを清は十分心得ている。
絶妙なタイミングでこの歌うたいの歌への意欲をかきたてるのだ。

たとえばこんな瞬間があったー

「看護師さんはangelだね。」

MNEMOがある時言ったのだ。

「う〜ん、まあ、白衣の天使とか言われますよね。でも看護師だって生身の人間
ですから。エンジェルを演じる、なんですよ、真相は。」

MNEMOは笑う。

「うまいことを言うね、小梅屋さん。それでも人を救い世話する仕事を志しただけで
大尊敬だよ、常人には。」

「もちろん立派な看護師はいます。けれどみんながみんなそうであるわけでもないの
です。これはどんな職業でも同じでしょう。私だって、どれほどprofessionalであるか、
問われたら自信がないところがあります。」

「たとえば?」

「患者様に寄り添うということ自体にです。これは医師や看護師の当然とされる態度
ですけれど、その寄り添い方っていうのは千差万別なんです。患者様によって、
本当に違ってしまう。アプローチが適当かどうかを自己判断するのは本当に至難な
ことなんです。」

「ああ。なるほど。」

「たとえば本当の意味の絶望を感じている患者様がいらっしゃいます。
余命3ヶ月とかと宣告されてしまった方とかです。これ以上の絶望はないでしょうね。
人間は自分の将来に可変性や可塑性があると信じられるから生きていけます。
それが断たれた状態がずばり本当の意味の絶望です。」

「ええ。」

「絶望した患者様にどう接するのか。看護師はそのとき自分の人間力のすべてを
問われてしまいます。真剣に寄り添うと言っても、その方と一緒に泣けばいいという
ようなことでもないし、天国のこと、極楽のことを語ればいいというのでもない。
かと言って、適当に突き放すとかっていうのも、その程度の問題があります。
いったい看護師はどこまで患者様の絶望に立ち入っていけばいいのか。
多くの経験談はあっても、自分が目の前にする患者様は別人なのですから。」

「うん。」

「知ったようなことは言わないんです、まず。<ただ>懸命に最後までその方の
未来の可能性を信じてやれることをする。そのときその方にその思いを言うことは
ありません。その方が号泣されれば、ただ<手当て>をします。背中や肩に。
言語は要りません。むしろあってはいけないと思うくらいです。」


MNEMOはこのやりとりで、言語・ことばとは一体何なのかを考え出した。
ある者へどんな前向きな言葉、励ましの言葉もむしろ吐かれてはいけない時とはー

歌音楽を当たり前にやってきた「シンガー」のMNEMOには衝撃的な話だった。

どんな感動的な歌も、背中や肩への<手当て>に及ばないー
そのとき絶望する者にとって触覚と温熱を感じる感覚にまさるものはないという事実!


またあるとき、小梅屋は臨終のときの話もしてくれた。
よく言われることだが、聴覚が一番最後まで残る感覚だということだ。
それはMNEMOにも実際の体験があった。父方の祖母が、酸素マスクをつけて、
もう臨終直前の状態にあったとき、彼は兄と東京から駆けつけた。
付き添っていた叔母は「もう意識はない」と言ったのにもかかわらず、
彼と兄が耳元で自分たちの名を告げると、祖母は荒い呼吸を突如止めて、
目は開けぬままだったが、ニッコリと笑ったのだった。
そのときのことが思い出されて、MNEMOは嗚咽した。

「そうなんです。そういうことを何度目にしてきたかしれません。」

清は言った。

「そのとき、臨終間際の方にとっては言葉を発している人間の名だけで十分なのです。
他のことばは要らない。そしてやはり触覚です。きっとそれも起動しています。
手を握ってくれているという感覚、あたたかさ、そして名を告げるときに吐かれる
息のあたたかさ、呼気のぬくもりと湿り気ー きっとみな感じています。」

MNEMOは深く感じ入ったのだった。


<つづく>




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