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Mooさんへのお返事

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Mooさんが、さすがの「蹉跌」書評を書いてくださっており、感激しました。

http://www.moo-azumino.com/main/Diary/2017.4/diary2017_4.html

ありがとうございました!

GlobalismとLocalism

村の鎮守の神主・氏子総代レベルでも国家神道思想は浸透している事実と可能性を
Mooさんが書かれていましたが、むろんそういうこともあると思います。
しかしそういう人々であっても、現実の村の疲弊、担い手の決定的不足などに
悲鳴を上げているはずであって、これがglobalism、市場主義経済のせいならば、
TPPなんてとんでもないと思っていて、ゆえに2012年に「ブレない。TPP断固反対!」と
大々的に打ち出した「保守政党」自民党に雀躍して投票し、ところがみごとな掌返しを
くらう。それが外圧(意外やTrumpアメリカ)によって握りつぶされてホッと一息と
いうところなのでしょう。保守とは何かを考えさせられているはずです。

Globalismの功罪をくわしくここで論じる気も能力もありませんが、
経済のそれと、環境意識的なそれもあると私は信じています。文化の世界的均質化
などいうのは考えるのも恐ろしい。それは断固反対で、私はブレません。
環境意識についてはまったくもってglobal awarenessというものが醸成されないでは
各国各地域にある文化伝統(localism)の崩壊すら考えられるわけです。

東京でクマゼミが至るところで鳴き、池田町でミカンが採れたらおしまいです。
東京の水道水が利根川水系からの<濃縮>セシウムに汚染され続けたらおしまいです。
池田町の北アルプス伏流水の循環が狂ってしまったらおしまいです。

Globalizationが、ある<先進的な国や地域>のスタンダードが演繹的に適用されて
いくことだとすれば、「余計なお世話」だと反発するところがあって当然です。
日本なら、その反発の精神的核心は「村の鎮守文化」だと私は思っています。
江戸時代くらいまでの閉鎖的、頑迷固陋な封建的村意識を賞賛するのではない。
そんなことは決してない。毎年稔りをもたらしてくれる「天道」に感謝し、
畏怖する精神のことです。その「天道」の象徴こそ村の鎮守なのです。
神社の鏡など、お天道様以外のなにものでもないのです。

日本の村々のlocalismこそ今や皮肉にも先進的思想です。
都市にへばりつき、「一等地」などというところに暮らすことに血道をあげる
人々は、自然の一部である自分を忘れ、まるで何でも文明で解決できるような
錯覚を抱きながら、最終的にはスパゲッティ状態になって病院で苦しみ、
自分は不死ではなかったのかと気づくような例もないとは言えますまい。
自然のrealityに突如襲われて己の<からだの自然>をとことん知らされるのです。
己のからだとは、空気と水、食べ物そのものであるという事実。
そしてエントロピーがまったく例外なく適用される<物>であるという事実。

諸localismはきっとglobalismよりも上のことにはるかに自覚的であるはずです。


土に還るということ

私も、そしてこの拙文を読んでくださっている方々も、どんなに頑張っても余命は
数十年です。必ず私たちは土に還ります。
この繰り返しをずっと動植物はやってきたのです。
その繰り返しは、ある特定の生き物には一回のものでしょう。
それは私にも異論ありません。

問題はいつも私にとっては<なぜ存在はあるか>なのです。
なくてもよかった宇宙がなぜ誕生し、生命があるのか、ということです。
それを考えていると、Mooさんのような潔い態度を私はとれないのです。

氏は書いておられます。

「(前略)1回きりの人生という強烈な意識になる。そこには神も仏も必要はない。
人間こそがすべててあり、社会の形成に一人の人間として責任を負うという自覚、
それがあるだけです。」

この力強いステートメントが、「なぜ存在はあるのか」という問いへの答えを
もしMooさんがお持ちなら、それの大きな柱になる思想だと思います。
おそらく「そんなwhyを考えても仕方がない」とおっしゃるでしょうが。(笑)

ただ、私は思うのですー
「なぜ存在はあるのか」ということを考えて、その自分なりの答えー
とは云えそれはいつでも仮であり、持続しませんがーがなんとなくつかめると、
詩になったり、歌になったり、踊りになったり、絵画になったり、小説になったり
するのです。神仏は、私にとってはそれらの行為そのものの象徴です。

潔さは私には一番望めない美徳です。
これはもう本当にそうなのです。恥ずかしいです。

けれど私は「なぜ存在は存在するか」という問いにどうしても<潔く>答えを出せない。
たとえば「そんなことを考えてもしかたがない」というような。

そういう問いを延々と考えるからご褒美のようなものがもらえるときがあるのです。
それが私には歌なのです。

歌を持てるから、歌を歌えるから、私はほんのちょっと<潔くない自分>のマイナスを
カバーできるような気がしているのです。

なんというか、<潤い>を自分に持てるというか。


土は古い印欧語で「hum」だったと言われます。
人間は土塊であるから「human」なのだと。
土には湿り気があるから「humid」ということばも生まれ、
人間同士の意思疎通でおそらくなにより大切な(と私は思う)「humor」は、
まさに「潤い」だと思っています。

私の「蹉跌」はユーモアだらけになっているはずです。
シリアスなこともユーモアで笑い飛ばしているはずです。

まさに思考の回転軸に潤いを与えるもの、それがユーモアです。

昔に比べ明らかにユーモアのない政治家たちばかりになったことが、
おそらく日本の現今の政治劣化と直接結びついていると思えます。

とまれ、私も早晩土に還ります。
存在の不思議をずっと、おそらく事切れる間際まで考えながら。



後記: なお、前記事は、愛子さまによる卒業記念文集に寄せた一文です。



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