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蹉跌集め -60- [小説]

60

十三はまったく悠奈のことが忘れられないままだった。
大学が始まって、中野坂上の悠奈のマンションの前まで行ってはそそくさと帰った。
もはや悠奈は住んでいないようだと悟り始め、それほどまで自分は嫌われたか、
それとも誰かの近くへと行ったのかと思うようになった。

「そうならばきっと狛江だろう。」

十三はほとんど確信していた。

「そして狛江なら、多摩川べりの方ー きっと和泉多摩川駅周辺だ。」

妻・花乃里が娘と里帰りした四月の9日昼過ぎ、十三は和泉多摩川へクルマを走らせた。
カーナビ通りに行き、駅前のロータリーに到着した。目の前は交番で、そう長くは
停めていられない。ナビをスクロールして、川沿いの住宅地を見つけ、
適当にその辺りを目的地にセットして出発する。

右折左折を何度か繰り返して、土手下の比較的開けた道に出た。
いい道だが、路上駐車ができるほどの広さはない。近くのコインパークを探し出し、
今来た道を今度は歩き出す。悠奈に会えるはずなどないのは知っている。
しかし、彼女に近づいているということだけである程度の満足感があった。

「俺はストーカーだな、まったく。」

十三は今度は屈辱を感じた。
自分は今までに一度としてフラれたことなどなかった。順風満帆の人生ー
悠奈と出くわすまでは。

土手道に上がって、いずれの方向へ歩き出すべきかを考える。
悠奈は駅近くに住んでいるはずだと推定し、川上方向を選ぶ。
その道を自動車教習所に通う若者が何人か歩いてくる。悠奈と年恰好が同じ女性も
たまに歩いてくる。遠くでそういう女性を認めると、十三はドキドキしてしまう。
髪が比較的長く、165センチほどの背格好だったりすると心臓の高鳴りは聞こえるほどに
なった。しかし、悠奈ではなかった。

そんな風に歩いていると、多摩水道橋のたもとにまで来てしまった。そのまま行っても
狛江市内であるのは分かっている。駅からそう遠くないところまで行ってみようと思う。
右手に都立高校があって、校庭では野球部の休日練習が行われている。その校庭の
西側の端まで来て、北へ行く道へ入る。

その道は少し下り坂になっている。
まもなく十三は何か不気味な感じがして立ち止まった。
空気が違うのだ。目を瞑る。十三は何かを感じ取ろうとする。
子どもの頃からこうした空気の異なるところでは、十三は目を瞑ると幻視とは云え
何かが見えた。思えば小日向の切支丹坂での幻視もそういうことだった。

見えたのは男女のカップルが道の左手からどんどんと出てくる様だった。
幸せそうな表情の対はない。男も女も仮面をかぶったように表情を変えない。
そしてその仮面の表情は、まさに仏頂面なのだが、さもしさが滲んでいた。

「ああ、ここにはいわゆる連れ込み宿が在ったのだな。」

十三はそう思った。この空間で、夥しい数のカップルが来ては後ろめたく欲望を
満たしたのだと思うと、自分が今していることの卑しさに戦慄が走った。

十三はその場を逃げ出す。逃げ出すや否や、右手に小さな地蔵堂が在るのが
ぎりぎり視野に入った。途端に十三はグッと踏み止まって、急ブレーキをかけたクルマの
ように慣性力で前のめった。

「お地蔵様が泣いていらっしゃる!」

十三はそう思った。なぜかそう思った。
手を合わせて何十秒も祈りを捧げて、歩き出す。すると追いかけてくる老婦人がいた。

「あのぅ、ごめんなさい、突然話しかけたりしてー」

老婦人は言った。

「今あなたさまはあのお地蔵さまに懇ろに手を合わせていらっしゃったでしょう。」

十三は老婦人の表情を見て、その穏やかさにホッとしながら、

「ええ。」

と答えた。

「なぜあそこにお地蔵様がいらっしゃるかご存じ?」

「あ、いいえ。存じ上げません。」

「そうですか。あのお地蔵様は、そう、もうあれから50年に近いかしら、
ある日すぐ近くの多摩川岸に少女の水死体が上がりましてね。
身元が不明のままで・・・。
あの小さな地蔵堂を造り、供養したのですよ、あの地蔵堂がくっついているお家の方が。」

「そうなんですか。」

老婦人はお辞儀して去っていく。十三は彼女のした話を噛みしめていた。

「泣いていらっしゃるはずだ。」

十三は独りごちた。

「その少女は、無念の死を遂げ、地蔵となった。そしてそのすぐ目の前で、
夥しい数のカップルの逢瀬を見てきたのだ。そのカップルが幸せならばそれはお地蔵様も
心安かったろうが・・・。」

十三は地蔵堂に戻って、再び心からの祈りを捧げた。
ソメイヨシノの、散って土手の方から雨で流された無数の花びらが、
小さな川のようになって地蔵堂に導かれている。

十三は泣けた。
そして心に決める。もう二度と悠奈をこんな風に追ってはならない、と。


<つづく>




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